慶福寺と「蓮田の伝説」

「蓮田」の地名発祥伝説――蓮華院弥陀堂
現在の「蓮華院弥陀堂」
天平15年(743年)、奈良朝廷第3代目となられた聖武天皇は諸国の様子をつぶさに巡察させようと、東国に「義澄」という高貴な方を遣わされました。こうして旅に着かれた義澄があるとき当地を訪れ、この「弥陀堂」を一夜の宿とされたのでした。翌朝、目覚めとともにお堂の扉を開けた義澄の目を驚かせたのは、前方の沼田一面に美しく咲き誇る蓮の花々でした。その光景に大変心を打たれた義澄は、その弥陀堂に「蓮華院」という院号を贈られました。このことがあって以来、当地は「蓮田」と呼ばれるようになったといわれています。
現存する弥陀堂は慶福寺が管理する「蓮華院墓地」の中央に位置しています。伝説の中で「義澄」を感嘆させた蓮の沼田は残念ながら姿を消してしまいましたが、時折参拝者や歴史家の方々がここを訪れては、当時の様子に想いを馳せる光景などが見うけられます。

美貌の娘「寅子」の伝説――寅子石(寅御石)
花供養が絶えない「寅子石」
承久の乱の直後に、三浦義直は都に妻と娘を残したまま行方知れずとなってしまいました。母子は父を慕って奥州へと向かう旅に着きましたが、ちょうど武蔵国・原市の宿場から岩槻へ抜ける辻谷の地にさしかかったところで母親が病に倒れてしまいました。そこで、近くの長者の家に身を寄せて体を休めていたものの、長旅の疲れのせいか母親はいっこうに回復せずそのまま帰らぬ人となってしまったのです。残された娘の「寅子」はわずか6才。子宝に恵まれなかった長者の老夫婦は、この娘を天からの授かりものとして大切に育てることにしたのです。
長者夫婦の寵愛を一身に受けて育った寅子は血筋のせいか、年頃になるにつれて美しさと奥ゆかしさを増し、16を迎えるころにはその美貌が近隣の若者たちの評判を集めるようになっていました。
長者の家には朝に晩に途切れることなく求婚を申し出る者が訪れ、長者夫婦もこれをわが娘の果報を喜んでいました。しかし、あるとき岩槻の地頭渋江光資の一人息子が何としてでも寅子を妻に迎えたいと考え、多くの求婚者を無視して強談判を持ちかけたのです。一人を婿として決めれば必ず多数の人々とのいざこざが生じる状況の中で、長者夫婦は次第に疲れやつれていきました。寅子も最愛の両親の苦悩を見て、日々心を痛めるようになっていったのです。
そんなある春の日、突然求婚者たちの許に長者夫婦の家から酒宴の招きが届いたので、若者たちはいよいよ婿が決まるものと思って喜び勇んで出かけていきました。宴はたいそう盛大なもので、「今日はぜひ皆様に召し上がっていただきたいものがあります」と大皿に盛り付けた豪華な膾(なます)まで差し出されました。こうして酒と料理を十分にいただいて腹が膨れると、いよいよしびれを切らした若者の一人がが、寅子はいつ姿を見せるのかと長者に尋ねました。すると長者は畏まってこういったのです。「じつは、先ほど皆様に召し上がっていただいた膾こそ、わが愛娘お寅の腿の肉でございます。お寅は皆様に等しくわが身を捧げたいと申して自害したのでございます」。これを聞いて、居並ぶ若者はみな言葉を失ってしまいました。やがてそれぞれ涙を流して己のわがままと浅はかさを悔い、一同の総意で供養塔を建てることを決めました。その後、若者たちは出家して僧となり、供養塔の見える場所にそれぞれの名前を号した源悟寺、慶福寺、満蔵寺、正蔵院、多門院を建てて、寅子の冥福を祈ったといわれています。
いまでも寅子の命日とされる3月8日には、辻谷地区の婦人たちが中心となって好物の団子やご馳走をつくり、この寅子石の前で手あつい供養祭が執り行われています。


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